「反対尋問の鉄則」についての疑念と一つの仮説
反対尋問の技術として、弁護士の間では、次のルールがあるという。
「何故と聞くな。」
派生するものとして次のルールもある。
「ダメを押すな。」
これらを合わせると、「ダメ押しのため何故と聞く」ことは愚の骨頂ということになる。
これらは、ある本によれば、鉄則というべき反対尋問の技術だ。
しかし、証人の一見矛盾する供述を引き出した弁護士による尋問の後、多くの裁判官は証人に聞くだろう。
「調書と言ってることが違うようだけど、何故ですか?」
これで、「何故と聞かず」「ダメを押さず」尋問を終えた弁護士の目的はもろくも崩壊することになる。
意味ないじゃんその鉄則!
なんでだ?
この無意味な鉄則は何なの?(原則として認識することは極めて重要であることに文句はない。)
少し考えてみた。
反対尋問の技術として弁護士が学ぶのは、たぶんそのほとんどはアメリカから輸入された技術である。
しかし、アメリカの陪審員には補充尋問の制度はないのだろう(超個人的仮説)。
陪審員は証人に「何故?」と問うことが出来ない。少なくとも映画ではそんなシーンみたことがない。
こういう制度のもとでは、「何故と問わない」「ダメを押さない」というルールは鉄則でありうる。陪審員は、証人の一見矛盾する供述を消化する機会を得られず、消化不良の証言を採用するのは抵抗があるからだ。
これに対して日本の裁判は、ほぼ自由に裁判官や裁判員が補充尋問することができる。彼らは消化不良を起こさぬよう、「何故?」と聞ける。それは制度上許されたことなので、咎めることは出来ない。
証人が尋問者の手を離れたところで言い訳を語る機会は、可能な限り与えないようにすべきである。この点に異論はないだろう。先の「鉄則」も、証人に言い訳を語らせないための技術だからだ。
しかし、そうであれば、補充尋問のある(そしてそれが活用されている)制度の下では、先の「鉄則」は鉄則とはいえない。
むしろ、裁判官(裁判員)に「何故?」と聞かせぬ努力が必要だ。
その意味で、日本における反対尋問は、補充尋問のない制度の下での反対尋問に比べて、もう一段工夫がいる。
その工夫については、(今日はもう疲れたので)今後の課題としたい。